第3の目で人は何を見るのだろうか!

2015年10月19日
  視覚障碍者の支援コンサート「トレヴァンコンチェルト」は、盛会のうちに終了した。1400人以上の方々がコンサートにいらしてくださった。
  今年は、左手のピアニストとして世界的に有名な舘野泉さんが特別ゲストとして出演してくださった。脳出血を患い、不屈の精神で半身麻痺を乗り越え、左手だけで演奏する楽曲で復活なさった方だ。お目にかかると、柔和な笑顔をたたえた優しい紳士だ。
ご高齢にもかかわらず、演奏にかける集中力は壮絶なものを感じる。演奏を終えて舞台の袖に少し足を引きずりながら歩かれる姿は、疲労困憊の色が濃い。しかし、アンコールの拍手が鳴りやまないと毅然として舞台に赴く。

  その時、私はアンコールの曲が終了したら、花束をお渡しするために舞台のそでで待機していた。最前列のお客様のすすり泣きが聞こえてきた。ソ~と会場を見渡すと、多くの聴衆がハンカチを片手に舞台に見入っていた。しかし、その眼は舘野さんを見ていたのではなく、舘野さんを通してそれぞれの自己の世界を彷徨っているように私には見えた。
アンコールの曲は「カッチーニのアヴェマリア」なんと優しい音色だろう。同じピアノから奏でたとは思えない心をえぐるような音色だった。芸術の力とは、能書きがなくても音楽を知らない人が聴いても、異次元に誘う力を持っていることだろう。

  「第3の目」という言葉が頭をよぎった。
人は3つ目を持っている。手塚治虫の「三つ目がとおる」という漫画があったが、その主人公の第3の目は額の真ん中にあった。しかし私は、第3の目は心の中にある心の目だと思っている。
以前、還暦のお祝いに60本の真紅のバラを頂いた。それを見た途端、溢れる涙が止まらなかった。声を上げ、しゃっくりをしながら、泣いていたのを思い出す。
  日頃、無神経に生きている私はまず泣くという状況はほとんどない。悲しいドラマを見たり、動物の映画を観たりした時に涙ぐむ程度だ。
思いがけない贈り物であったことは事実だが、60本のバラがおいおい泣くほど嬉しかったわけでもなく、悲しいことなども全くなく穏やかで充実した日々を過ごしていた。だから、自分でも何故こんなに涙が止まらないのか不思議だった。
しかし、よくその時の事を思い返すと私は自分が生きてきた60年を振り返っていた気がする。幼いころから、両親や親せきの叔父や叔母には本当にかわいがってもらった。どんな時も、駆け寄れば相好を崩し笑顔で迎えてくれた。そんな自分が、いつの間にか還暦を迎え、過ぎ去ってしまった日々にもう二度と戻れないという惜別の情が、私を感情的にしたのだろう。
  心の目とは無意識(潜在意識)への入り口なのだろう。私が見ていたバラの花はスイッチであり、無意識下にあった過去の出来事が溢れだし、私の脳裏を駆け回り、心の目は忘れてしまっていた私の人生のデティールを見ていたのだろう。
人間の意識(顕在意識)は三角錐の頂点の部分だけで全体の10%とかなり少ない。あとの部分は無意識下であり、膨大なデーターが保存されている。時々、クイズ番組などみていると「なんでそんなことまで解るの?」という超人的な記憶力の持ち主が出演している。きっとそんな方たちは、無意識下に入るテクニックを持っていらっしゃるのだと思う。

  話がそれてしまったが、舘野さんのピアノ演奏は無意識下に入るスイッチであり、心の目を通してみなさまは何を思い浮かべていたのだろうか?
  音楽の力は素晴らしいと同時に人間の脳の力も素晴らしい。無意識をたどっていくと、時間の経過も多くの感情の軌跡も追えるのだから、、、。そして、自分のキャパをこえそうな状況になると、自然にすべてを切り離してしまう記憶喪失という切り札も持っているのだ。
  人の心というか脳は、原始意識、潜在意識、深層心理という膨大なデーターの上に成立している。だから、その一つ一つを大切に分析していくと天才と呼ばれるようになる可能性が誰にでもあるのだ。同時に以前、「少年A」でも触れたことがあるが、多くの人は罪を犯すと犯した自分を許さないのは自分自身であるというのは、この無意識下に蓄積された人間道によるものだろう。

  これで2015年も終わろうとしている。
除夜の鐘をききながら、自分の第3の目が何を見ているのかゆっくり見つめなおすと、本来やりたかったことが見えてくるかもしれない。

  みなさま、よいお年をお迎えください。                    チーム絆 代表  渡辺 照子