夜空の雲

  仕事を終え、スポ-ツジムからの帰り道、私は夜空を見上げる。
ビルの間から見える夜空はそんなには大きくない。それでも、一日として同じ夜空はない。星が見えると嬉しいし、月の綺麗な日は見惚れてしまう。特に満月の夜など群青色に染まった雲が美しい。
夜は暗くなって何もかもが混沌としてしまうような気がする。そんな中で、決して自分の存在をアピールするわけでもなく、飄々と漂いながら突然あっという間に風に押し流されてしまったり、ある時は都会の摩天楼の明かりを綿のように含みながら、自信に満ちて大気の形状を維持して、形を変えながら存在している夜の雲が大好きだ。それを見ると何故かホッとする。

  時々、人間の心の中も夜空の雲のようなものなのかもしれないと思う。暗くて混沌としていても、確たる自分の意思はこの雲のように存在し、その時々の感情の起伏によって大きくなったり、突然消えてしまったり、正気と狂気の境目もはっきり線引きなど出来ない。でも、心の中は見えないから、はっきり把握できない。

  最近、【絶歌】という少年Aが書いた本が出版された。
勿論、私は読んでいない。被害者の遺族が出版差し止めを希望したのだから、読むべきではないと思っている。
でも、私はここで彼が書いてしまった事を非難するつもりはない。
ただ、彼がどのように足掻いても、彼の起こしてしまった犯罪からは決して逃れられない事を彼は知るべきだ。
文章を書こうと、どのように弁明しようと、自分の犯した犯罪を彼自身が、彼の心が覚えているのだ。
だからこの先、どのように生活しても、たとえ世間が彼の犯罪を忘れても、心の闇に大きな雲を抱えるようにして生き続けるのだ。それは、死ぬことよりはるかに辛い日々だろう。
それが人を殺めてしまった罰だと思う。

  もし私がアドバイスできるとしたら、彼は被害者と極限まで向き合い、遺族に心を添わせ、贖罪の日々送る以外、彼の苦しい日々は終わらない。
何故なら、本を書くという行為は勿論お金を得る目的もあるだろうが、自分自身の犯してしまった罪を、意識しているか否かは解らないが、心の中では自分自身を責め、何とか正当化したいという想いがあるからだろう。
しかし、彼の犯してしまった罪は、元には戻せない。だから、その罪と共に生きる決心をした方が、全てを受け入れてこそ、自分の心が穏やかになる。
遺族の方々は、終わりない苦痛の日々を送り続けているのだから、当然だろう。

  イスラム国にしても、ボコハラムにしても狂気の沙汰としか思えない出来事が起きている。その犯罪者は、大概普通の人だ。家に帰ればいい息子であったり、優しい父親だったりする。
以前、私は人間の正気と狂気の間には大きな河が流れていると考えていた。だから、狂気になるには、かなりの動機が必要なのだろうと思っていた。
しかし、正気と狂気は一体となった雲のような存在なのかもしれない。だから大義名分さえあれば、自分を納得させられる口実さえ見つかれば、人間は誰でも鬼畜になれる。

  コリャまずい!!と思われたら、少し脳の仕組みを知ってみると面白いと思う。
右脳と左脳の働きを上手にコントロールできれば、かなり自分の心はセルフコントロールできるはず。
現代社会は物凄いスピードで進化している。ロボットが人間の代わりに働いたり、ラインを使えば世界中どこにいても同時に同じものをみたり、昔は 手塚治虫の漫画で見た空想の世界が現実になってきている。
しかし、感情や人間性を司っている人間の右脳は昔と変わらない。先日、「蜩ノ記」という時代映画を観たが、知らず知らずのうちに主人公の気持ちと共鳴して泣いている自分がいた。このように、人間の心や気持ちは今も昔も変わらない。
この科学の進歩と人間の心とのギャップが、心を不安定にしたり、ストレスを多くしているのだ。

  決定的な解決法などはないが、私は空を見上げる。昼であれ夜であれ自分の気持ちに近い雲をみつけては、私の感じているモヤモヤを投影してみる。すると、不思議なことに自分の心が冷静になり、漠とした不安の原因を分析しようとする。分析できると、(これがメンタルでは受け入れる受容という)自ずから対処法が見つかり、セルフコントロールに繋がる。

  何か不安になったり、苦しくなったら空を見上げて欲しい。そして、地球と自分の対比をすると、自分も自分の苦しみも90億分の一に過ぎない事に気づくだろう。そして、深呼吸を一回する。不安なときは、呼吸が浅くなっている。だから、酸素をたくさん吸って脳に供給すると、適切な判断に導かれる。こんな風に自分の心の声を無視しないで、真摯に向き合うことが、とても大切だ。

それとは関係なくても、私の大好きな夜空の雲を見て欲しい。


チーム絆 代表  渡辺 照子